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第2回ベトナム
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人の影になっているようじゃ、だめだ。こどもたち、自己主張しなさい
 
 

々の命のエネルギーがまず必要とする根を
第一に育てる。子育ては“自然農法” と同じ

  初の出版物は土壌学者であった父親との共著「絵解き生きている土の世界」。妊娠出産そして初めての子育てに導かれて料理へと向き合う以前に、「土」が生命の源であり人間の優しさを育てると感じていた、とおっしゃる奥薗さん。根底には料理研究家として、母としての自然の生命力への暖かいまなざしがあるのである。

 
講演などでは福岡正信さんの自然農法のお話もされていますね
 
福岡さんの自然農法は最近、だんだんと難しくなってきて、私本読んでも理解できない部分もだいぶあるんですけれども、かいつまんで言うと自然のままのものには、エネルギーがあるということですね。植物は植物のひとつの命として完結しているわけで、それが育とうとする命というかエネルギーが絶対にある。それを人間がここは日があたらへんからって、ぽんとひとつ切ったら、そこでエネルギーがひとつ欠けてしまう。自由に生きているところに「この腕邪魔や」って腕1本切られたら「私は要るんや」って言いたなるんと一緒。それはあんた(人間)の決めることやないやろって。葉ひとつ、枝一本、切ったらアカン。切ってしまったらそれは人為的な、人間の意思が係ったことやからその後をフォローするためにずっと手をかけていかないといけなくなる。枝ひとつ葉っぱひとつ、絶対に、何も、切らない。それが自然農法なんです。
 
砂漠で“泥粘土団子”から根がどんどんと伸びて水を探し当てるというお話に感動しました
 
私も感動したんですよ、あの話には。根が伸びて水にたどり着かなかったら死んでしまうわけだから。種にとっては死活問題。どこまでもどこまでも伸びます、そりゃ必死で。もう死んでもええわって絶対あきらめません。下手にそこで水やって、あ、ここに水がある。ここで水貰えるんやと思わせといて途中で止めるから枯れる。水を一回あげたら最後まで責任持ってあげなあかん。それができひんのに水やって途中で止めるから枯れるんですよ。
 
何も手をかけてないところで発芽したものに関しては最後まで手をかけなくとも生きていけるのですね
 
雑草は取っても取っても生きているでしょ。全然手をかけてないから根っこが下の方まで行ってて抜いても抜いても根がある。でも水やってる野菜は違うでしょ?上の方を伸ばして根は表面のところにちょろちょろっと、下には伸びていかないですね。結局、植物でも動物でも人間でも安易な方がええんですねぇ。楽に水が貰える、楽に生きていける思ったら、みんなそっちの方がいい。苦労してまで得たいとは思っていないんです、誰も。
 
苦労するところにエネルギーが生まれてくる?
 
生まれてくるし、やっぱり苦労したら苦労した分しっかりと根が大地に栄える。ばん、と。意味はあるんです、無駄ではない。上には伸びて無くてもね。上に出てくる前に根がまず必要なんですよ。根があるから抜いても抜いても出てくる。根っこから抜いてしまう野菜は、もう後何にもはえてきませんよね。
私は子育ては自然農法と同じやと思っています。だからテレビゲームに没頭しようともそれはその子の命の力なので、私が勝手に切ってはいけないと思っているんですよ。そこまでしてやっているわけにはそれにはその子のエネルギーの理由がある。そこ切ったらそのエネルギーをどこにやるんやろ? そこまで私は責任持てへん。エネルギーのベクトルを親が無理やりは軌道修正できないと思うんです。
 
上に出てきたものを大きく綺麗に整える前にまず根っこが大切。上に伸びてくる形は不細工でもいい(笑)と?
 
不細工ですよ、うちのは本当に(笑)。私の母も「子どもはちゃんとしつけないと。そんな教育してて悪い方に行ったらどうすんのん?」って自分を棚に上げて言うんですよ。だけど私が目を光らせていたから悪いことに行かへんというもんじゃないでしょ。友達のせいにしてもあかん。それはその子の意思やと思うんです。子供だってそりゃ嫌なこともあるでしょうし、たまにはイライラはしてるでしょうけど、自分の持っているエネルギーを育てていると暴れたりキレルというようなストレスにはならないん違うかなぁ。
 
近頃は“イラつく”子供達がよく問題になっていますけれど
 
イラつかせてあげたらいいじゃないですか。素直さが足らん!とか、親としては態度が気になるのはホントわかる、わかる。けど嫌なもんは嫌だもん。嫌なことやらされているから、嫌な態度を表現するのは素直なんだと思いますよ。嫌なことを隠してにっこり笑ってやってはるほうがよっぽど危ないような気がするけど。私だって嫌なことがあったら家で「今日イライラしてんねん」って思いっきり顔に出たりするときある。それは人間なので、お互い様。親だって監視するにはエネルギーが結構いる。親にとっても監視するって本当にストレスが溜まることでしょう?
 
イライラのもとですよね
 
すごくイライラするでしょ? そして生産性が無い。でもそのエネルギーを全然シャットアウトしてしまって自分の好きなことに使えば、自分のストレスも溜まらないし、ここには生産性が生まれると思いません?思い通りにはならないものに対してストレスを溜めるよりかは、私も好きな生き方をしてきているし子供にも好きなようにしていて欲しいと思っています。私、子供の成績とかも全然知らないです。勉強とか全然興味がないんですよ。
 
学期ごとの通知表を見るくらいですか?
 
それも見てへんときあって。新学期始まるから判子押してくれって持ってきて。あぁ、そういや見てへんなぁみたいなことも時々。フフフ。
 
え、本当ですか? じゃ宿題は?
 
全然知りません。何の宿題が出てるか一回も見たこと無い。宿題が何があって、試験がいつあってなんて全然知らないです。あるとき息子が「塾行きたい」って言い出したんで聞いてみたら「みんな行ってるし」って、社交場なんですね塾って。
じゃぁって、行かせていたんですけど、ある時友達に「奥薗君ってどこの塾行ってるん?」って聞かれて、あれ?どこやろう? 本当にどこの塾行ってるんかも知らんかった。(笑)もう何もかも任せっきり。本人のやりたいまんまです。
 
自分で決めるというのは自立のひとつの方法でもあり、責任感も育つかもしれませんね
 
うん、自分の責任になるから。それにやっぱり持って生まれた性格あるから。息子はだらしないって言ったら言葉が悪いですけれど、小学校の時なんて宿題もほとんどやってなかった。私が宿題やった?とか言わへんからね、やって行かんとそれでも平気。たとえば、漢字テストなんかも前の日に漢字10問書いておけばできるような試験なのに、0点取ってくるんですよ。そりゃそうですよね、やってないもん。平気で「へへ。れーてーん」言うてる。たまに一個マルがあったら「おぉ、一個マルがあったー」。私も「おおお!マルが一個ぉぉ」パチパチパチ〜〜。そんなもんやから小学校6年生くらいまではテレビゲームもやりたい放題。やたらとものを買い与えるというのは問題なので、お年玉とか、誕生日とかクリスマスに与えますけど、ゲームやったらアカンとは言わない。30分なら30分で止めなさいと言えるような母親でもないので、自分の意志で目が疲れたら止めなさいくらいしか言わない。一日中やっていたことも何日もありますね。そしたら面白いんですよ。中学校入るととたんにゲームなんてピタッとやらへんようになったんです。やっても昔みたいに必死なってはしない。友達の間でMDが流行って、ウォークマンで聞きながら歌うのが流行ると「まだゲームやってんの?だっせー」みたいに言わるし、ゲームピコピコやるより、MD聞きながら自転車乗ってムフフ〜〜ンってノッテるほうがかっこいいし、気持ちいい。それに中学になってバスケット部に入ったのでバスケばっかりですね。全部自分の判断。何も言わんでもゲーム卒業してスポーツに向かって、これからまた何に興味持つか分かりませんけど、その時、その時で、子供が好きなようにやったらいいと思っています。
 
家庭内で喧嘩がなくていいですね。つい勉強やゲームのことでがみがみ言ってしまったりすること多いと思うのですが
 
こんな無茶無茶な母親の家庭もあるんですよ(笑)。ただ、いつもやりたいことをやりなさい。我慢してやりたくないことをやるんじゃなくてやりたいことをやりなさいとは言っています。何やるのでも嫌やと思いながらやるのってつまらないでしょ。それは人生の損失やと思っているので。楽しい楽しいと思ってやれることをやれ、と言ってますね。
 
庭料理の“連続”は生きる力そのもの
 月日を経て変化する構成人数や生活様式を飲み込み消化して彩られるのが家庭の食卓。豊かなエネルギーを育てるためには、素材と過程もさることながら笑顔を生む時間でありつづけることが第一条件という奥薗さんちのお台所には、家族だけでない沢山の笑顔が集まる。食で繋がれたネットワークはまた彼女自身にも力を与えているようだ。 
 
ご自身は小さなとき、どのようなお子さんでしたか?
 
今の私からは想像できないかもしれませんが、中学校までは引っ込み思案な子だったんです。小学校時代は自分から友達の輪に入っていけるような子供でもなかった。いつでも2階の自分の部屋の窓から路地裏で子供たちがメンコしたりして遊んでいるのをじーっと見てるような。学校行ってもあんまりお話もできなくて、もうちょっとお話ししなさいとか言われてた。今やこんな、もうしゃべらんでええっていうくらいしゃべるのにね(笑)。休み時間になったら図書室に行って本を読んでいるような、そんな子だったんですよ。
 
今のままただ小さくしたような小学生かと思っていました
 
そうでしょ? 小学生の時はまじめで大人しくて先生に「はい」とお返事をして言われたことをきちん、きちんとやるいわゆる優等生。自分で言うのも何やけど、先生がすごいひいきするんです。それがものすごく嫌だった。私は別にひいきされたくない。特別視されたくない。けど中学になったらそのひいきがさらに強くなって。私だって授業中に騒ぎたい。けれど騒いでも怒られるのは一緒に騒いだ相手の方。優等生ってある意味、すごい孤独なんですね。阻害されて本当の友達ができひん部分がある。もう優等生はイヤだイヤだイヤだイヤだーって、内側から叫んでるんですけれど、いっぺんつけられると、その優等生のレッテルが剥がせられない、自分では。やっぱり優等生で3年過ごすんです。
 
自分の意思で生きて初めて真の友人もできる。自我を抑えると人間関係にもよい影響はないとお考えですか?
 
管理しすぎることは子供を駄目にする一因であると同時に大人を駄目にする要因でもあると思いますね。お母さんだって自分のやりたいことを一番に考えたらいいと思うんですけれど、自分のやりたいことを見つけれられていない人たちが多いのかもわからないですよね。私自身も悩んで悩んで、試行錯誤を繰り返して、やっと見つけた、と言えると思うんです。
 
料理研究家としての道を見つけたということですね
 
私は<ナマクラ流ズボラ派>の料理研究家なんですけれど<ナマクラ流ズボラ派>にもラインがあって、ただ手を抜いただけではアカン(笑)。それではただの手抜きの主婦で終わってしまう。家庭料理で一番大切なことはやはり楽しく食べるっていうことやと思うんです。それがたとえ買ってきたお惣菜であっても、お茶漬けであっても一番大切なのは家族が集まって楽しく食べることがすべての原点。そのために<ナマクラ流ズボラ派>がないと駄目や。<ナマクラ流ズボラ派>で手を抜いた分、家族みんなが食卓を楽しく感じられるようにそちらにエネルギーを使う、そんな料理を考えています。ですから市販のお惣菜を否定しないけれども、私自身はほとんど使わないです。出来合いのお惣菜は買ってこなければならない。合わせ調味料で作るのも手抜きのひとつの方法として否定はしないけれども、結局はわざわざ買ってこないと作れない。<ナマクラ流ズボラ派>な私はわざわざ買いに行かなくても今、家にあるものでパパッと作れる料理を研究しています。出来合いのものを買いに行く手間なしに今あるものでみんなに豊かな笑顔が生まれるような方法を考えるのが<ナマクラ流ズボラ派>のカテゴリーなんです。楽しみながらズボラを出きる人を、実はズボラーと呼んでまして正しいズボラーになる方法を書いたのが、今度の新刊『ズボラ人間の料理術』なんです。そのひとつのアイテムとして重宝するのが買い置きの出来る乾物。使えば間違いなく旨みがある。美味しいものが出来る。体にもいい。乾物を大切なグッズとして考えているんですよ。
 
乾物を積極的に使っていこうというのは珍しいですよね
 
使い慣れていないとなかなか難しいかもしれないけれども、本当に何も無いときに、乾物の料理を知っていたらいいですよ。常温で保存が出来るし、何もなくてもお弁当買いに行く手間を考えたら高野豆腐をチャチャッと煮ることが出来るならその方がよっぽど美味しい。体にもいい。ほっとできるし。
 
東京に基点を移されてまもなく4年とお聞きしました 
 
色々ありました。私は京都に育った田舎モンなので誰でもいい人、いい人と思ってしまう。なので騙されもしました。裏切られもしました。かなり涙を飲みました(笑)。とんでもないことが嫌ってほどいっぱい最初の一年間くらいで起った。またか。またか。何でこんなに人を騙すようなことするの。でも田舎モンやからまた騙される。優しいこと言われるといい人やなと思う(笑)。

都会の人ってある意味ドライでしょ?踏み込んではいけない部分をちゃんとわきまえる。何も言わなくてもどうしたん?どうしたん?っておせっかい焼いてくれる田舎の人と違って、東京の人はこっちが意思表示しないと、やたらおせっかいに手を差し伸べることはしないんですね。だけど困っているんやって言えば必ず手を差し伸べてくれる。自分から意思表示して初めて周りの人が手を差し伸べてくれたんです。私の周りにはがんばれ!がんばれ!って言うてくれる友達がいっぱいいてる。騙されたとこの尻拭いやら日々のことで精一杯の毎日やったけど、そのおかげで大切な人の存在に初めて気がつきました。大事なんは人と人との輪が生み出す力、ネットワークなんやって。料理研究家の仕事は派手な部分もあるかもしれへん。けど私は華やかでなくていいから日常の生活の中で食の事を真剣に考えていきたい。地道な活動をやっていくためのネットワークを作ろうと『お台所奉行の会』を1999年6月に発足。こうして一歩踏み出せたことで、自分自身が一皮剥けたと思っています。
 
新しい夢が生まれました?
 
私はやはり料理研究家なので、家庭料理をどこまでも追求していきたいと思っています。家庭料理なんてレストランほど美味しくないと、よく言う人がいるけれども、根本的に質が違う。家庭料理とは“連続”なんですよ。あ、今日は味付けが濃かったとか薄かったとか、そういう意味でも作りつづけることでひとつの形になっていくし、何より毎日お母さんが料理を作ってくれる、ここだけの食の時間というのが大事。昨日食べたから今日はもうええわ、っていうレストランの料理ではなくて、毎日営みつづけることの中に家庭料理の価値があると思うんですね。そう考えるとテレビや雑誌でこれが家庭料理だよ、と示すのは非常に難しい。肉じゃがや煮っころがしは切り取った一部分であって、それが果たして家庭料理を表しているかどうか。それに家庭料理は変化していくもの。基本的に誰かと一緒に食べる、豊かな気持ちで優しい雰囲気で。または誰かと一緒に作る。やはり原点は誰かのために作るという気持ちそのものが家庭料理だと思いますし、実際に今は私も子供と一緒に食べる時間が多い。けれど子供達が巣立って一人になったときには、誰と一緒に食べるんやろう。どうやって作っていくんやろう。それもずっと営み続けないと家庭料理の形は見えてこない。一緒に食べてくれる人がもしかいなかったとしても、それでもそこには家庭料理が存在する。人が生きていて料理を作って食している。家庭料理を作り続けることは生きる力そのものいうことを、メッセージとして送りたい。それが私の夢であり希望です。
  2001.6.27.東京都自宅にて

 

 
 

ナマクラ流ズボラ派家庭料理研究家
<お台所奉行の会>代表

  URL:http://www1.odn.ne.jp/~cce89410/top.htm
 
奥薗壽子 プロフィール
 
1962年 京都生まれ
1985年 神戸市外国語大学中国学科卒業
 
美味しくヘルシーな奥薗流ズボラクッキングを提唱して、雑誌、テレビ、料理講習、講演にと全国を駆け巡る2児の母。
 
2001年10月25日 待望の新刊『ズボラ人間の料理術』
    サンマーク出版1200円 いよいよ発売開始